岐阜市青少年保護育成条例事件 最判平成元年9月19日

岐阜県青少年保護育成条例事件

  主   文

 本件上告を棄却する。

       理   由

 一 弁護人青山學、同井口浩治の上告趣意のうち、憲法二一条一項違反をいう点は、岐阜県青少年保護育成条例(以下「本条例」という。)六条二項、六条の六第一項本文、二一条五号の規定による有害図書自動販売機への収納禁止の規制が憲法二一条一項に違反しないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和二八年間第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和五七年(あ)第六二一号同六〇年一〇月二三日判決・刑集三九巻六号四一三頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法二一条二項前段違反をいう点は、本条例による有害図書の指定が同項前段の検閲に当たらないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法一四条違反をいう点が理由のないことは、前記昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決の趣旨に徴し明らかである。同上告趣意のうち、規定の不明確性を理由に憲法二一条一項、三一条違反をいう点は、本条例の有害図書の定義が所論のように不明確であるということはできないから前提を欠き、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。


 二 所論にかんがみ、若干説明する。

 1 本条例において、知事は、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとされ(六条一項)、



右の指定をしようとするときには、緊急を要する場合を除き、岐阜県青少年保護育成審議会の意見を聴かなければならないとされている(九条)。



ただ、有害図書のうち、特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物については、知事は、右六条一項の指定に代えて、当該写真の内容を、あらかじめ、規則で定めるところにより、指定することができるとされている(六条二項)。



これを受けて、岐阜県青少年保護育成条例施行規則二条においては、右の写真の内容について、「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二性交又はこれに類する性行為」と定められ、さらに昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号により、その具体的内容についてより詳細な指定がされている。このように、本条例六条二項の指定の場合には、個々の図書について同審議会の意見を聴く必要はなく、当該写真が前記告示による指定内容に該当することにより、有害図書として規制されることになる。



以上右六条一項又は二項により指定された有害図書については、その販売又は貸付けを業とする者がこれを青少年に販売し、配付し、又は貸し付けること及び自動販売機業者が自動販売機に収納することを禁止され(本条例六条の二第二項、六条の六第一項)、いずれの違反行為についても罰則が定められている(本条例二一条二号、五号)。

 2 本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであつて、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になつているといつてよい。



さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いことなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。



しかも、自動販売機業者において、前記審議会の意見聴取を経て有害図書としての指定がされるまでの間に当該図書の販売を済ませることが可能であり、このような脱法的行為に有効に対処するためには、本条例六条二項による指定方式も必要性があり、かつ、合理的であるというべきである。



そうすると、有害図書自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法二一条一項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法二一条一項に違反するものではない。

 よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。
 この判決は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
 裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
 岐阜県青少年保護育成条例(以下「本件条例」という。)による有害図書の規制が憲法に違反するものではないことは、法廷意見の判示するとおりである。いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているところであるが、本件において有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる価値のない又は価値の極めて乏しい出版物がもつぱら営利的な目的追求のために刊行されており、青少年の保護育成という名分のもとで規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至つている。そして、本件条例のような法的規制に対しては、表現の送り手であるマス・メデイア自身も、社会における常識的な意見も、これに反対しない現象もあらわれている。しかし、この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであつて、所論には検討に値する点が少なくない。以下に、法廷意見を補足して私の考えるところを述べておきたいと思う。
 一 本件条例と憲法二一条
 (一) 本件条例によれば、六条一項により有害図書として指定を受けた図書、同条二項により指定を受けた内容を有する図書は、
  青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(六条の二)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法二一条一項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和六三年(オ)第四三六号平成元年三月八日大法廷判決・民集四三巻二号八九頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない。
 青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによつて精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている。青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であつて、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。
 このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。以上のような観点にたつて、以下に論点を分けて考察してみよう。
 (二) 青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもつて足りると解してよいと思われる。もつとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといつて、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
 西ドイツ基本法五条二項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によつて制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもつてする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといつてよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。
 (三) すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によつて制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであつても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
 しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあつても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴つて当然に附随的に生ずる効果であつて、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例六条二項によつて有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によつてこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。
 (四) 本件条例による規制が憲法二一条二項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決(民集三八巻一二号一三〇八頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、六条一項による個別的指定であつても、また同条二項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であつても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない。
 もつとも、憲法二一条二項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条一項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であつても、受け手に入手されるに先立つてその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもつている。しかし、それが受け手の知る自由を全面的に閉ざすものではなく、指定をうけた有害図書であつても販売の方法は残されていること、のちにみるように指定の判断基準が明確にされていること、規制の目的が青少年の保護にあることを考慮にいれるならば、その事前抑制的性格にもかかわらず、なお合憲のための要件をみたしているものと解される。
 (五) すでにみたように、本件条例は、有害図書の規制方式として包括指定方式をも定めている。この方式は、岐阜県青少年保護育成審議会(以下「審議会」という。)の審議を経て個別的に有害図書を指定することなく、条例とそのもとでの規則、告示により有害図書の基準を定め、これに該当するものを包括的に有害図書として規制を行うものである。一般に公正な機関の指定の手続を経ることにより、有害図書に当たるかどうかの判断を慎重にし妥当なものとするよう担保することが、有害図書の規制の許容されるための必要な要件とまではいえないが、それを合憲のものとする有力な一つの根拠とはいえる。
 包括指定方式は、この手続を欠くものである点で問題となりえよう。
 このような包括指定のやり方は、個別的に図書を審査することなく、概括的に有害図書として規制の網をかぶせるものであるから、検閲の一面をそなえていることは否定できないところである。しかし、この方式は、法廷意見の説示からもみられるように、自販機による販売を通じて青少年が容易に有害図書を入手できることから生ずる弊害を防止するための対応策として考えられたものであるが、青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なつて心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によつては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる「一夜本」のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとつてきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもつては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。私としては、つぎにみるように包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえないものと考える。
 二 基準の明確性
 およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いつそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もつとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限つての規制であることから
 みて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても