平成21年12月7日 気管支ぜん息の重積発作により入院しこん睡状態にあった患者から,気道確保のため挿入されていた気管内チューブを抜管した医師の行為が,法律上許容される治療中止に当たらないとされた事例

※終末期医療において適法な治療行為の中止というものが認められるのか否かが問題となった。

事件番号
 平成19(あ)585
事件名
 殺人被告事件
裁判年月日
 平成21年12月07日
法廷名
最高裁判所第三小法廷
裁判種別
 決定
結果
 棄却
判例集等巻・号・頁
刑集 第63巻11号1899頁
原審裁判所名
東京高等裁判所
原審事件番号
 平成17(う)1419
原審裁判年月日
 平成19年02月28日


要旨

判示事項
 気管支ぜん息の重積発作により入院しこん睡状態にあった患者から,気道確保のため挿入されていた気管内チューブを抜管した医師の行為が,法律上許容される治療中止に当たらないとされた事例
裁判要旨
 気管支ぜん息の重積発作により入院しこん睡状態にあった患者から,気道確保のため挿入されていた気管内チューブを抜管した医師の行為は,患者の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査が実施されておらず,発症から2週間の時点でもあり,回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなく,また,回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものの,その要請は上記のとおり病状等について適切な情報を伝えられた上でされたものではなかったなどの本件事情の下では,法律上許容される治療中止には当たらない。



主文
本件上告を棄却する。

理由
弁護人矢澤昇治の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお,所論にかんがみ,気管内チューブの抜管行為の違法性に関し,職権で判断する。
1 原判決の認定した事実及び記録によれば,気管内チューブの抜管に至る経過等は以下のとおりである。
(1) 本件患者(当時58歳。以下「被害者」という。)は,平成10年11月2日(以下「平成10年」の表記を省略する。),仕事帰りの自動車内で気管支ぜん息の重積発作を起こし,同日午後7時ころ,心肺停止状態でA病院に運び込まれた。同人は,救命措置により心肺は蘇生したが,意識は戻らず,人工呼吸器が装着されたまま,集中治療室(ICU)で治療を受けることとなった。被害者は,心肺停止時の低酸素血症により,大脳機能のみならず脳幹機能にも重い後遺症が残り,死亡する同月16日までこん睡状態が続いた。
(2) 被告人は,同病院の医師で,呼吸器内科部長であったものであり,11月4日から被害者の治療の指揮を執った。被害者の血圧,心拍等は安定していたが,気道は炎症を起こし,喀痰からは黄色ブドウ球菌,腸球菌が検出された。被告人は,同日,被害者の妻や子らと会い,同人らから病院搬送に至る経緯について説明を受け,その際,同人らに対し,被害者の意識の回復は難しく植物状態となる可能性が高いことなど,その病状を説明した。
(3) その後,被害者に自発呼吸が見られたため,11月6日,人工呼吸器が取り外されたが,舌根沈下を防止し,痰を吸引するために,気管内チューブは残された。同月8日,被害者の四肢に拘縮傾向が見られるようになり,被告人は,脳の回復は期待できないと判断するとともに,被害者の妻や子らに病状を説明し,呼吸状態が悪化した場合にも再び人工呼吸器を付けることはしない旨同人らの了解を得るとともに,気管内チューブについては,これを抜管すると窒息の危険性があることからすぐには抜けないことなどを告げた。
(4) 被告人は,11月11日,被害者の気管内チューブが交換時期であったこともあり,抜管してそのままの状態にできないかと考え,被害者の妻が同席するなか,これを抜管してみたが,すぐに被害者の呼吸が低下したので,「管が抜けるような状態ではありませんでした。」などと言って,新しいチューブを再挿管した。
(5) 被告人は,11月12日,被害者をICUから一般病棟である南2階病棟の個室へ移し,看護婦(当時の名称。以下同じ。)に酸素供給量と輸液量を減らすよう指示し,急変時に心肺蘇生措置を行わない方針を伝えた。被告人は,同月13日,被害者が一般病棟に移ったことなどをその妻らに説明するとともに,同人に対し,一般病棟に移ると急変する危険性が増すことを説明した上で,急変時に心肺蘇生措置を行わないことなどを確認した。
(6) 被害者は,細菌感染症に敗血症を合併した状態であったが,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されていない。また,被害者自身の終末期における治療の受け方についての考え方は明らかではない。
(7) 11月16日の午後,被告人は,被害者の妻と面会したところ,同人から,「みんなで考えたことなので抜管してほしい。今日の夜に集まるので今日お願いします。」などと言われて,抜管を決意した。同日午後5時30分ころ,被害者の妻や子,孫らが本件病室に集まり,午後6時ころ,被告人が准看護婦と共に病室に入った。被告人は,家族が集まっていることを確認し,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき,被害者が死亡することを認識しながら,気道確保のために鼻から気管内に挿入されていたチューブを抜き取るとともに,呼吸確保の措置も採らなかった。
(8) ところが,予期に反して,被害者が身体をのけぞらせるなどして苦もん様呼吸を始めたため,被告人は,鎮静剤のセルシンドルミカムを静脈注射するなどしたが,これを鎮めることができなかった。そこで,被告人は,同僚医師に助言を求め,その示唆に基づいて筋し緩剤であるミオブロックをICUのナースステーションから入手した上,同日午後7時ころ,准看護婦に指示して被害者に対しミオブロック3アンプルを静脈注射の方法により投与した。被害者の呼吸は,午後7時3分ころに停止し,午後7時11分ころに心臓が停止した。
2 所論は,被告人は,終末期にあった被害者について,被害者の意思を推定するに足りる家族からの強い要請に基づき,気管内チューブを抜管したものであり,本件抜管は,法律上許容される治療中止であると主張する。
しかしながら,上記の事実経過によれば,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず,発症からいまだ2週間の時点でもあり,その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして,被害者は,本件時,こん睡状態にあったものであるところ,本件気管内チューブの抜管は,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが,その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく,上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば,上記抜管行為は,法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。
そうすると,本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は,正当である。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官田原睦夫裁判官藤田宙靖裁判官堀籠幸男裁判官
那須弘平裁判官近藤崇晴