最判平成22年6月17日 売買の目的物である新築建物に重大な瑕疵がありこれを建て替えざるを得ない場合において,当該瑕疵が構造耐力上の安全性にかかわるものであるため建物が倒壊する具体的なおそれがあるなど,社会通念上,建物自体が社会経済的な価値を有しないと評価すべきものであるときには,上記建物の買主がこれに居住していたという利益については,当該買主からの工事施工者等に対する不法行為に基づく建て替え費用相当額の損害賠償請求において損益相殺ないし損益相殺的な調整の対象として損害額から控除することはできないとした事
最判平成22年6月17日 売買の目的物である新築建物に重大な瑕疵がありこれを建て替えざるを得ない場合において,当該瑕疵が構造耐力上の安全性にかかわるものであるため建物が倒壊する具体的なおそれがあるなど,社会通念上,建物自体が社会経済的な価値を有しないと評価すべきものであるときには,上記建物の買主がこれに居住していたという利益については,当該買主からの工事施工者等に対する不法行為に基づく建て替え費用相当額の損害賠償請求において損益相殺ないし損益相殺的な調整の対象として損害額から控除することはできないとした事例
事件番号
平成21(受)1742
事件名
損害賠償請求事件
裁判年月日
平成22年6月17日
法廷名
最高裁判所第一小法廷
裁判種別
判決
結果
棄却
判例集等巻・号・頁
民集 第64巻4号1197頁
原審裁判所名
名古屋高等裁判所
原審事件番号
平成20(ネ)1063
原審裁判年月日
平成21年6月4日
判示事項
売買の目的物である新築建物に重大な瑕疵がありこれを建て替えざるを得ない場合に,買主からの工事施工者等に対する不法行為に基づく建て替え費用相当額の損害賠償請求において買主が当該建物に居住していたという利益を損益相殺等の対象として損害額から控除することの可否
裁判要旨
売買の目的物である新築建物に重大な瑕疵がありこれを建て替えざるを得ない場合において,当該瑕疵が構造耐力上の安全性にかかわるものであるため建物が倒壊する具体的なおそれがあるなど,社会通念上,建物自体が社会経済的な価値を有しないと評価すべきものであるときには,上記建物の買主がこれに居住していたという利益については,当該買主からの工事施工者等に対する不法行為に基づく建て替え費用相当額の損害賠償請求において損益相殺ないし損益相殺的な調整の対象として損害額から控除することはできない。
(補足意見がある。)
参照法条
民法709条
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人西野泰夫の上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について
1 本件は,新築建物を購入した被上告人らが,当該建物には構造耐力上の安全性を欠くなどの瑕疵があると主張して,その設計,工事の施工等を行った上告人らに対し,不法行為に基づく損害賠償等を求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1) 上告人Y は,上告人Y との1 2 間で,鉄骨造スレート葺3階建ての居宅である第1審判決別紙物件目録記載2の建物(以下「本件建物」という。)の建築を目的とする請負契約を締結した。その工事の施工は上告人Y2が,その設計及び工事監理は上告人Y3及び上告人Y4が行い,本件建物は平成15年5月14日までに完成した。
(2) 被上告人らは,平成15年3月28日,上告人Y1から,代金3700万円で,持分を各2分の1として本件建物及びその敷地を購入した。被上告人らは,同年5月31日,本件建物の引渡しを受け,以後これに居住している。
(3) 本件建物には,柱はり接合部に溶接未施工の箇所や,突合せ溶接(完全溶込み溶接)をすべきであるのに隅肉溶接ないし部分溶込み溶接になっている箇所があるほか,次のような構造耐力上の安全性にかかわる重大な瑕疵があるため,これを建て替えざるを得ない。
ア1階及び2階の柱の部材が小さすぎるため,いずれも柱はり耐力比が制限値を満たしていない上,1階の柱については応力度が許容応力度を超えている。
イ2階の大ばりの部材が小さすぎるため,応力度が許容応力度を超えている。
ウ2階及び3階の大ばりの高力ボルトの継ぎ手の強度が不足している。
エ外壁下地に,本来風圧を受けない間仕切り壁の下地に使用される軽量鉄骨材が使用されているため,暴風時などに風圧を受けると,大きなたわみを生じ,外壁自体が崩壊するおそれがある。
オ基礎のマットスラブの厚さが不足しており,その過半で応力度が許容応力度を超えている。
3 原審は,上告人らの不法行為責任を肯定した上,本件建物の建て替えに要する費用相当額の賠償責任を認めるなどして,被上告人らの請求を各1564万4715円及び遅延損害金の支払を求める限度で認容すべきものとした。
4 所論は,被上告人らがこれまで本件建物に居住していたという利益や,被上告人らが本件建物を建て替えて耐用年数の伸長した新築建物を取得するという利益は,損益相殺の対象として,建て替えに要する費用相当額の損害額から控除すべきであるというのである。
5(1) 売買の目的物である新築建物に重大な瑕疵がありこれを建て替えざるを得ない場合において,当該瑕疵が構造耐力上の安全性にかかわるものであるため建物が倒壊する具体的なおそれがあるなど,社会通念上,建物自体が社会経済的な価値を有しないと評価すべきものであるときには,上記建物の買主がこれに居住していたという利益については,当該買主からの工事施工者等に対する建て替え費用相当額の損害賠償請求において損益相殺ないし損益相殺的な調整の対象として損害額から控除することはできないと解するのが相当である。
前記事実関係によれば,本件建物には,2(3)のような構造耐力上の安全性にかかわる重大な瑕疵があるというのであるから,これが倒壊する具体的なおそれがあるというべきであって,社会通念上,本件建物は社会経済的な価値を有しないと評価すべきものであることは明らかである。そうすると,被上告人らがこれまで本件建物に居住していたという利益については,損益相殺ないし損益相殺的な調整の対象として損害額から控除することはできない。
(2) また,被上告人らが,社会経済的な価値を有しない本件建物を建て替えることによって,当初から瑕疵のない建物の引渡しを受けていた場合に比べて結果的に耐用年数の伸長した新築建物を取得することになったとしても,これを利益とみることはできず,そのことを理由に損益相殺ないし損益相殺的な調整をすべきものと解することはできない。
6 原審の判断は,以上と同旨をいうものとして是認することができる。論旨は採用することができない。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官宮川光治の補足意見がある。
裁判官宮川光治の補足意見は,次のとおりである。
建物の瑕疵は容易に発見できないことが多く,また瑕疵の内容を特定するには時間を要する。賠償を求めても売主等が争って応じない場合も多い。通常は,その間においても,買主は経済的理由等から安全性を欠いた建物であってもやむなく居住し続ける。そのような場合に,居住していることを利益と考え,あるいは売主等からの賠償金により建物を建て替えると耐用年数が伸長した新築建物を取得することになるとして,そのことを利益と考え,損益相殺ないし損益相殺的な調整を行うとすると,賠償が遅れれば遅れるほど賠償額は少なくなることになる。これは,誠意なき売主等を利するという事態を招き,公平ではない。重大な欠陥があり危険を伴う建物に居住することを法的利益と考えること及び建物には交換価値がないのに建て替えれば耐用年数が伸長するなどと考えることは,いずれも相当でないと思われる。
最判平成22年3月17日 街頭募金詐欺について包括一罪と解することができるとされた事例
最判平成22年3月17日 街頭募金詐欺について包括一罪と解することができるとされた事例
事件番号
平成21(あ)178
事件名
職業安定法違反,詐欺,組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反
裁判年月日
平成22年3月17日
法廷名
最高裁判所第二小法廷
裁判種別
決定
結果
棄却
判例集等巻・号・頁
刑集 第64巻2号111頁
原審裁判所名
大阪高等裁判所
原審事件番号
平成20(う)187
原審裁判年月日
平成20年12月11日
判示事項
1 街頭募金詐欺について包括一罪と解することができるとされた事例
2 包括一罪を構成する街頭募金詐欺について,その罪となるべき事実の特定に欠けるところはないとされた事例
裁判要旨
1 街頭募金の名の下に通行人から現金をだまし取ろうと企てた者が,約2か月間にわたり,事情を知らない多数の募金活動員を通行人の多い複数の場所に配置し,募金の趣旨を立看板で掲示させるとともに,募金箱を持たせて寄付を勧誘する発言を連呼させ,これに応じた通行人から現金をだまし取ったという本件街頭募金詐欺については,(1)不特定多数の通行人一般に対し一括して同一内容の定型的な働き掛けを行って寄付を募るという態様のものであること,(2)1個の意思,企図に基づき継続して行われた活動であること,(3)被害者が投入する寄付金を個々に区別して受領するものではないことなどの特徴(判文参照)にかんがみると,これを一体のものと評価して包括一罪と解することができる。
2 包括一罪を構成する判示のような街頭募金詐欺の罪となるべき事実については,募金に応じた多数人を被害者とした上,被告人の行った募金の方法,その方法により募金を行った期間,場所及びこれにより得た総金額を摘示することをもってその特定に欠けるところはない。
参照法条
(1,2につき)刑法246条1項 (2につき)刑訴法335条1項
判旨
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人笠松健一の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
所論にかんがみ,本件詐欺の罪数関係及びその罪となるべき事実の特定方法につき職権で判断する。
1 本件は,被告人が,難病の子供たちの支援活動を装って,街頭募金の名の下に通行人から金をだまし取ろうと企て,平成16年10月21日ころから同年12月22日ころまでの間,大阪市,堺市,京都市,神戸市,奈良市の各市内及びその周辺部各所の路上において,真実は,募金の名の下に集めた金について経費や人件費等を控除した残金の大半を自己の用途に費消する意思であるのに,これを隠して,虚偽広告等の手段によりアルバイトとして雇用した事情を知らない募金活動員らを上記各場所に配置した上,おおむね午前10時ころから午後9時ころまでの間,募金活動員らに,「幼い命を救おう!」「日本全国で約20万人の子供達が難病と戦っています」「特定非営利団体NPO緊急支援グループ」などと大書した立看板を立てさせた上,黄緑の蛍光色ジャンパーを着用させるとともに1箱ずつ募金
箱を持たせ,「難病の子供たちを救うために募金に協力をお願いします。」などと連呼させるなどして,不特定多数の通行人に対し,NPOによる難病の子供たちへの支援を装った募金活動をさせ,寄付金が被告人らの個人的用途に費消されることなく難病の子供たちへの支援金に充てられるものと誤信した多数の通行人に,それぞれ1円から1万円までの現金を寄付させて,多数の通行人から総額約2480万円の現金をだまし取ったという街頭募金詐欺の事案である。
2 そこで検討すると,本件においては,個々の被害者,被害額は特定できないものの,現に募金に応じた者が多数存在し,それらの者との関係で詐欺罪が成立していることは明らかである。弁護人は,募金に応じた者の動機は様々であり,錯誤に陥っていない者もいる旨主張するが,正当な募金活動であることを前提として実際にこれに応じるきっかけとなった事情をいうにすぎず,被告人の真意を知っていれば募金に応じることはなかったものと推認されるのであり,募金に応じた者が被告人の欺もう行為により錯誤に陥って寄付をしたことに変わりはないというべきである。
この犯行は,偽装の募金活動を主宰する被告人が,約2か月間にわたり,アルバイトとして雇用した事情を知らない多数の募金活動員を関西一円の通行人の多い場所に配置し,募金の趣旨を立看板で掲示させるとともに,募金箱を持たせて寄付を勧誘する発言を連呼させ,これに応じた通行人から現金をだまし取ったというものであって,個々の被害者ごとに区別して個別に欺もう行為を行うものではなく,不特定多数の通行人一般に対し,一括して,適宜の日,場所において,連日のように,同一内容の定型的な働き掛けを行って寄付を募るという態様のものであり,かつ,被告人の1個の意思,企図に基づき継続して行われた活動であったと認められる。加えて,このような街頭募金においては,これに応じる被害者は,比較的少額の現金を募金箱に投入すると,そのまま名前も告げずに立ち去ってしまうのが通例であり,募金箱に投入された現金は直ちに他の被害者が投入したものと混和して特定性を失うものであって,個々に区別して受領するものではない。以上のような本件街頭募金詐欺の特徴にかんがみると,これを一体のものと評価して包括一罪と解した原判断は是認できる。そして,その罪となるべき事実は,募金に応じた多数人を被害者とした上,被告人の行った募金の方法,その方法により募金を行った期間,場所及びこれにより得た総金額を摘示することをもってその特定に欠けるところはないというべきである。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。なお,裁判官須藤正彦,同千葉勝美の各補足意見がある。
□ 須藤補足意見
裁判官須藤正彦の補足意見は,次のとおりである。
私は,法廷意見に賛成するものであるが,さらに,被害者の錯誤の介在や被害金額という視点から,以下の点を付言しておきたい。
詐欺罪は,欺もう行為による被害者の錯誤(瑕疵ある意思)に基づき,財物の交付又は財産上の利益の移転がなされることによって成立する犯罪である。そうすると,詐欺罪において,複数の被害者がある場合には,各別の瑕疵ある意思が介在するから,一般的にはこれを包括評価するのは困難であり,個々の特定した被害者ごとに錯誤に基づき財物の交付又は財産上の利益の移転がなされたことが証明されなければならず,個々の特定した被害者ごとに被告人に反証の機会が与えられなければならないのであるが,犯意・欺もう行為の単一性,継続性,組織的統合性,時や場所の接着性,被害者の集団性,没個性性,匿名性などの著しい特徴が認められる本件街頭募金詐欺においては,包括評価が可能であり,かつ,相当であると考えられる。しかし,被告人が領得した金員の額が詐欺による被害金額であるというためには,その金員は欺もう行為による被害者の錯誤に基づき交付されたものでなければならず,本件の場合も,原判決が認定した約2480万円が被害金額であるというためには,その全額が,寄付者が被告人の欺もう行為によって錯誤に陥り,そのことによって交付した金員でなければならない。そうすると,不特定多数であるにせよ,個々の寄付者それぞれに錯誤による金員の交付の事実が合理的な疑いを差し挟まない程度に証明された場合にのみ,その交付された金員の額が被害金額として認定されるというべきである。本件のように包括一罪と認められる場合であっても,被害金額については可能な限り特定した被害者ごとに,錯誤によって交付された金員の額が具体的に証明されるべきであって,それによって他の被害者の寄付も錯誤によってなされたとの事実上の推定を行う合理性が確保されるというべきである。したがって,例えば,一定程度の被害者を特定して捜査することがさして困難を伴うことなく可能であるのに,全く供述を得ていないか,又はそれが不自然に少ないという場合は,被告人が領得した金員が錯誤によって交付されたものであるとの事実の証明が不十分であるとして,被害金額として認定され得ないこともあり得ると思われる。
□ 千葉補足意見
裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。
私は,法廷意見に賛成するものであるが,本件犯罪行為を一体のものと評価し包括一罪として扱うことについて,次の点を補足しておきたい。
一般に,包括一罪として扱うためには,犯意が単一で継続していること,被害法益が一個ないし同一であること,犯行態様が類似していること,犯行日時・場所が近接していること等が必要であるとされることが多い(犯意の単一性及び被害法益の同一性を挙げるものとして,最高裁昭和29年(あ)第180号同31年8月3日第二小法廷判決・刑集10巻8号1202頁)。このような見解が示されるのは,特定の構成要件に該当する複数の行為を全体として一つの犯罪として評価するのに相応しいものであるかどうかという観点からみると,上記の犯意の単一性・継続性等々が認められれば,通常はそのような評価が可能になるからである。私も,この見解は基本的には堅持されるべきものと考えている。そして,これを基に,多数人に対し欺もう行為を行ったという詐欺罪について考えると,通常の犯行態様を念頭に置く限り,複数の被害者ごとに法益侵害があり,被害法益が一個とはいえないので,これを包括一罪として扱うことはできないということになろう。
しかし,上記の被害法益が一個であること等は,包括一罪として扱うための「要件」とまで考えるべきではなく,あくまでも,包括一罪としてとらえることができるか否かを判断するための重要な考慮要素と考えるべきであり,これらのどれか一つでも欠ける場合は,それだけで包括一罪としての評価が不可能であるとまで言い切る必要はない。本件のように,通常の詐欺罪とは異なる犯行態様で欺もう行為がされた場合は,原点に立ち返って,全体として一つの犯罪と評価して良いかどうかを,具体的に見ていく必要があろう。
本件においては,犯意は一個であり,欺もう行為も全体として一連の行為と見ることができよう。問題は,被害法益をどうとらえるかである。詐欺罪の保護法益は,個人の財産権であって,それは被害者ごとに存在するものであり,本件においてもその点は変わらない。集団的・包括的な財産権のような法益概念を想定し,その法益侵害があったというとらえ方は,そのような特殊な被害法益を新たに創設するものであり,これは,立法論としてはあり得なくはないが(もっとも,そのような法益概念は,その内容・外延が不明確であり,立法論としても慎重な検討が求められるところである。),現行刑法の詐欺罪における被害法益概念とは異なるものといわなければならない。法廷意見は,被害法益は被害者個々人ごとに存在することを前提としているものであり,その点では,現行刑法の詐欺罪の従来の概念を一部変更するようなものではない。
ところで,これを前提に考えた場合,本件街頭募金詐欺の犯行態様,特に,その被害者の被害法益に着目してみると,被害者は,自分が寄付した金額について,明確な認識を有しなかったり(例えば,ポケットに在った小銭をそのまま金額を確認せず募金箱に投入したケースなどが考えられる。),あるいは,認識を有していても,街頭で通りすがりの際の行為であるから,寄付の金額自体に重きを置いておらず,その金額を早期に忘却してしまうこと等があることが容易に推察されるところである。そして,募金箱に投入された寄付金は,瞬時に他と混和し,特定できなくなるのである。このように,本件においては,被害者及び被害法益は特定性が希薄であるという特殊性を有しているのであって,これらを無理に特定して別々なものとして扱うべきではない。
欺もう行為が不特定多数の者に対して行われる詐欺は,本件のような街頭募金詐欺以外にも存在するところであり,虚偽の情報を広く流して不特定多数から多額の出資を募り,一定の金員を詐取するなどがその例である。しかしながら,このような犯罪は,欺もう行為が不特定多数に対してされたとしても,被害者は,通常は,その出資金額(多くの場合,多額に及ぶものであろう。)を認識しており,その点で,被害者を一人一人特定してとらえ,一つ一つの犯罪の成立を認めて全体を併合罪として処理することが可能であるし,そうすべきものである。
他方,本件は,前述したように,被害者ないし被害法益の特殊性があり,それを被害者単位に犯罪が成立していると評価して併合罪として処理するのは適当でないと思われる。そして,実際上も,被害者及び被害金額を特定することは,多くの場合不可能であり,例外的に特定できたケースに限ってしか犯罪の成立を認めないという考え方は,街頭募金詐欺の上記の特殊性を無視するものであり,採り得ないところである。
最判平成22年10月26日 航行中の航空機同士の異常接近事故について,便名を言い間違えて降下の管制指示をした実地訓練中の航空管制官及びこれを是正しなかった指導監督者である航空管制官の両名に業務上過失傷害罪が成立するとされた事例
最判平成22年10月26日 航行中の航空機同士の異常接近事故について,便名を言い間違えて降下の管制指示をした実地訓練中の航空管制官及びこれを是正しなかった指導監督者である航空管制官の両名に業務上過失傷害罪が成立するとされた事例
事件番号
平成20(あ)920
事件名
業務上過失傷害被告事件
裁判年月日
平成22年10月26日
法廷名
最高裁判所第一小法廷
裁判種別
決定
結果
棄却
判例集等巻・号・頁
刑集 第64巻7号1019頁
原審裁判所名
東京高等裁判所
原審事件番号
平成18(う)1318
原審裁判年月日
平成20年4月11日
判示事項
航行中の航空機同士の異常接近事故について,便名を言い間違えて降下の管制指示をした実地訓練中の航空管制官及びこれを是正しなかった指導監督者である航空管制官の両名に業務上過失傷害罪が成立するとされた事例
裁判要旨
航行中の航空機甲機及び乙機が著しく接近し,両機の衝突を避けるために急降下した甲機の乗客らが負傷した事故について,実地訓練中の航空管制官において両機が異常接近しつつあることを知らせる警報を認知して巡航中の乙機を降下させることを意図しながら便名を言い間違えて上昇中の甲機に対し降下指示をし,その指導監督者である航空管制官においてこれに気付かず直ちに是正をしなかったことは,ほぼ同じ高度から甲機が同指示に従って降下すると同時に乙機も航空機衝突防止装置により発せられる降下指示に従って降下し,両機の接触,衝突等を引き起こす高度の危険性を有する行為であって,これと上記事故との間の因果関係も認められ,かつ,上記航空管制官両名において,両機が共に降下を続けて異常接近し,両機の機長が接触,衝突を回避するため急降下を含む何らかの措置を余儀なくされることを予見できたという本件事実関係(判文参照)の下では,上記航空管制官両名につき,両機の接触,衝突等の事故の発生を未然に防止するという業務上の注意義務を怠った過失があったものとして,それぞれ業務上過失傷害罪が成立する。
(補足意見,反対意見がある。)
参照法条
刑法(平成13年法律第138号による改正前のもの)211条前段
判旨
主 文
本件各上告を棄却する。
理 由
第1 上告趣意に対する判断
被告人Aの弁護人鍜治伸明,同米倉勉の上告趣意は,判例違反をいう点を含め,実質は事実誤認,単なる法令違反,量刑不当の主張であり,被告人Bの弁護人藤井成俊の上告趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は事実誤認,単なる法令違反の主張であり,被告人B本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。
第2 職権判断
所論にかんがみ,被告人両名に対する業務上過失傷害罪の成否について,職権で判断する。
1 本件の事実関係
原判決の認定及び記録によれば,本件の事実関係は,次のとおりである。
(1) 被告人両名の地位,職責
ア被告人両名は,本件当時,国土交通省東京航空交通管制部所属の航空管制官であり,被告人Aは,同管制部において,被告人Bの指導監督を受けながら,南関東空域においてレーダーを用いる航空路管制業務を行うために必要とされる技能証明を取得するための実地訓練として,自ら管制卓に着き,担当空域である上記空域の航空交通の安全確保のため,航行中の航空機に対し飛行の方法について必要な指示を与えるなどの航空路管制業務に従事し,被告人Bは,被告人Aが上記実地訓練を行うに当たり,その訓練監督者として同被告人の指導監督を行い,担当空域である上記空域の航空交通の安全確保のため,航行中の航空機に対し飛行の方法について必要な指示を与えるなどの航空路管制業務に従事していた。
イ航空管制官が管制業務を遂行するに当たり準拠すべきものとされている航空保安業務処理規程によれば,管制間隔とは,「航空交通の安全かつ秩序ある流れを促進するため航空管制官が確保すべき最小の航空機間の空間をいう。」と定義された上で,「業務の優先順位は,管制間隔の設定を第一順位とし,その他の業務は次順位とする。」と定められ,本件当時,2万9000フィートを超える高度の空域において,管制官が確保すべき管制間隔は,2000フィート(約610m)の垂直間隔又は5海里(約9260m)の水平間隔とされていた。
(2) 航空機衝突防止装置の機能及び被告人両名の知識
ア航空機衝突防止装置(以下「TCAS」という。)は,相手機との電波の送受信による情報を基に,航空機双方の方位,相対速度,高度及び距離を自動的に算出して衝突の可能性の有無を計算し,衝突するおそれがある双方の航空機の機長ら乗組員に対して,上下に相反する回避措置を採るようそれぞれ音声により指示する機能などを有する装置である(以下,TCASが発する回避措置の指示を「RA」という。)。
イ被告人両名は,本件当時,TCASの機能の概要や,ボーイング747−400D型旅客機及びダグラスDC10−40型旅客機を含む一定以上の規格の航空機にTCASが装備されていることについての知識を有していた。
(3) RAと管制官の指示との関係
本件当時,航空機の運航のため必要な情報を航空機乗組員に対し提供するものとして航空法に基づき国土交通省航空局が発行していた航空情報サーキュラーは,「RAにより管制指示高度からの逸脱を行う場合,パイロットは航空法96条1項の違反には問われない。」と規定するのみで,RAと管制指示が相反した場合の優先順位について規定していなかった。また,日本航空株式会社の運航規定であるオペレーションズ・マニュアル・サプルメントでは,「RAが発生した場合は,機長がRAに従って操作を行うことが危険と判断した場合を除き,RAに直ちに従うこと」と規定されていた。
(4) 本件の発生状況
ア平成13年1月31日午後3時54分15秒ころ,静岡県焼津市付近上空において,東方から西方に向かい高度約3万6800フィート(管制卓レーダー画面上は3万6700フィートと表示)を高度約3万9000フィートに向け上昇していた日本航空株式会社所属のボーイング747−400D型旅客機日本航空907便(以下「907便」という。)が,その飛行計画経路に従って左旋回を開始したことにより,折から飛行計画経路に従ってその南方を西方から東方に向かい巡航高度約3万7000フィートで航行していた同社所属のダグラスDC10−40型旅客機日本航空958便(以下「958便」という。)に急接近したため,管制卓レーダー画面上に両機間の管制間隔が欠如するに至ることを警告する異常接近警報が作動し,両機がそのまま飛行を継続すれば,両機間の管制間隔が欠如してほぼ同高度で交差して接触,衝突するなどのおそれが生じた。
イこのような場面においては,上昇中の907便よりも早く降下に移ることができる巡航中の958便に対して降下指示を直ちに行うことが最も適切な管制指示であったところ,被告人Aは,上記異常接近警報を認知し,958便を高度約3万5000フィートまで降下させる指示を出すことを意図したが,便名を907便と言い間違えて,同日午後3時54分27秒ころから32秒ころにかけて,約3万7000フィートを巡航している958便とほぼ同高度を上昇中の907便に対し高度3万5000フィートまで降下するよう指示した(以下「本件降下指示」ということがある。)。なお,907便の副操縦士が,英語で「日本航空907便,3万5000フィートに降下します。関連機を視認しています。」という意味の応答をして,被告人Aの指示を復唱したものの,被告人Aは,便名の言い間違いに気付かなかった。被告人Bも,これらのやり取りを聞いていたが,被告人Aが958便に対し降下指示をしたものと軽信し,便名の言い間違いに気付かなかった。
ウ907便の機長であったC(以下「C機長」という。)は,上記復唱のころに,907便を降下させるための操作を開始したところ,同日午後3時54分35秒ころ,907便に装備されていたTCASが,上方向への回避措置の指示(以下「上昇RA」という。)を発した。
エC機長は,上昇RAが発せられていることを認識したが,①958便を視認しており,目視による回避操作が可能と考えたこと,②907便は既に降下の体勢に入っていたこと,③958便の上を十分高い高度で回避することが必要であるところ,上昇のためには,エンジンを加速し,その加速を待って機首を上げる操作をしなければならないが,降下の操作によりエンジンをアイドルに絞っていたため,エンジンの加速に時間が掛かると思ったこと,④空気が薄い高々度において,不十分な推力のまま不用意に機首上げ操作を行うと,速度がどんどん減ってしまい,場合によっては失速に至ってしまうという事態が考えられたこと,⑤被告人Aによる降下指示があり,管制官は907便を下に行かせて間隔設定をしようとしていると考えたこと,⑥958便がTCASを搭載しているか否か,それが作動しているか
否か分からず,958便が必ずしも降下するとは考えなかったことを根拠に降下の操作を継続した。
なお,C機長が,上記の上昇RAに従った操作をしても,客観的には907便の航空性能からすると失速のおそれはなかったが,本件当時,航空性能に関する技術情報は,機長ら乗組員に対して十分に周知する措置が採られていなかったため,C機長は失速のおそれがないとの考えには至らなかった。
オ他方,同日午後3時54分34秒ころ,958便に装備されていたTCASが下方向への回避措置の指示(以下「降下RA」という。)を発し,同便の機長は,同指示に従って降下の操作を行った。
カ本件降下指示に従った907便と降下RAに従った958便は共に降下をしながら水平間隔を縮めて著しく接近し,同日午後3時55分6秒ころ,C機長は,両機の衝突を避けるために,急降下の操作を余儀なくされ,そのため,907便に搭乗中の乗客らが跳ね上げられて落下し,57名が負傷した(以下,乗客らの負傷の事実も含めて「本件ニアミス」という。)。
キ同日午後3時55分11秒ころ,907便は,958便の下側約10mを通過してすれ違った。
2 当裁判所の判断
(1) 所論は,言い間違いによる本件降下指示は危険なものではなく過失行為に当たらず,本件ニアミスは,上昇RAに反した907便の降下という本件降下指示後に生じた異常な事態によって引き起こされたものであるから,本件降下指示と本件ニアミスとの間には因果関係がない上に,被告人両名において,907便と958便が共に降下して接近する事態が生じることを予見できなかったのであるから,被告人両名に対して業務上過失傷害罪が成立しない旨主張する。
(2) そこで検討すると,上記1(1)のとおり,被告人Aが航空管制官として担当空域の航空交通の安全を確保する職責を有していたことに加え,本件時,異常接近警報が発せられ上昇中の907便と巡航中の958便の管制間隔が欠如し接触,衝突するなどのおそれが生じたこと,このような場面においては,巡航中の958便に対して降下指示を直ちに行うことが最も適切な管制指示であったことを考え合わせると,被告人Aは本来意図した958便に対する降下指示を的確に出すことが特に要請されていたというべきであり,同人において958便を907便と便名を言い間違えた降下指示を出したことが航空管制官としての職務上の義務に違反する不適切な行為であったことは明らかである。そして,この時点において,上記1(2)アのとおりのTCASの機能,同(4)アのとおりの本件降下指示が出されたころの両機の航行方向及び位置関係に照らせば,958便に対し降下RAが発出される可能性が高い状況にあったということができる。このような状況の下で,被告人Aが言い間違いによって907便に降下指示を出したことは,ほぼ同じ高度から,907便が同指示に従って降下すると同時に,958便も降下RAに従って降下し,その結果両機が接触,衝突するなどの事態を引き起こす高度の危険性を有していたというべきであって,業務上過失傷害罪の観点からも結果発生の危険性を有する行為として過失行為に当たると解される。被告人Aの実地訓練の指導監督者という立場にあった被告人Bが言い間違いによる本件降下指示に気付かず是正しなかったことも,同様に結果発生の危険性を有する過失行為に当たるというべきである。
また,因果関係の点についてみると,907便のC機長が上昇RAに従うことなく降下操作を継続したという事情が介在したことは認められるものの,上記1(3)のとおりの管制指示とRAが相反した場合に関する規定内容や同(4)エのとおりの降下操作継続の理由にかんがみると,同機長が上昇RAに従わなかったことが異常な操作などとはいえず,むしろ同機長が降下操作を継続したのは,被告人Aから本件降下指示を受けたことに大きく影響されたものであったといえるから,同機長が上昇RAに従うことなく907便の降下を継続したことが本件降下指示と本件ニアミスとの間の因果関係を否定する事情になるとは解されない。そうすると,本件ニアミスは,言い間違いによる本件降下指示の危険性が現実化したものであり,同指示と本件ニアミスとの間には因果関係があるというべきである。
さらに,被告人両名は,異常接近警報により907便と958便が異常接近しつつある状況にあったことを認識していたのであるから,言い間違いによる本件降下指示の危険性も認識できたというべきである。また,上記1(2)イのとおりのTCASに関する被告人両名の知識を前提にすれば,958便に対して降下RAが発出されることは被告人両名において十分予見可能であり,ひいては907便と958便が共に降下を続けて異常接近し,両機の機長が接触,衝突を回避するため急降下を含む何らかの措置を採ることを余儀なくされ,その結果,乗客らに負傷の結果が生じることも予見できたと認められる。
以上によれば,被告人Aの言い間違いによる本件降下指示は,便名を言い間違えることなく958便に対して降下指示を与えて,原判決罪となるべき事実にいう907便と958便の接触,衝突等の事故の発生を未然に防止するという航空管制官としての業務上の注意義務に違反したものであり,被告人Bが,被告人Aが958便に対し降下指示をしたものと軽信して,その不適切な管制指示に気付かず是正しなかったことも,被告人Aによる不適切な管制指示を直ちに是正して上記事故の発生を未然に防止するという,被告人Aの実地訓練の指導監督者としての業務上の注意義務に違反したものというべきである。そして,これら過失の競合により,本件ニアミスを発生させたのであって,被告人両名につき業務上過失傷害罪が成立する。これと同旨の原判断は相当である。
なお,本件ニアミスが発生した要因として,管制官の指示とRAが相反した場合の優先順位が明確に規定されていなかったこと,航空機の性能についてC機長に周知されていなかったという事情があったことも認められる。しかし,それらの事情は,本件ニアミス発生の責任のすべてを被告人両名に負わせるのが相当ではないことを意味するにすぎず,被告人両名に対する業務上過失傷害罪の成否を左右するものではない。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官櫻井龍子の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。なお,裁判官宮川光治の補足意見がある。
裁判官宮川光治の補足意見は,次のとおりである。
被告人Aは,間もなく成田に着陸予定で高度約3万7000フィートを巡航中であった958便に対し降下指示を出すべきところ,便名を907便と言い間違え,ほぼ同高度を約3万9000フィートに向け上昇中の那覇行き907便に降下指示を出した。同人の指導監督者であった被告人Bも言い間違いに気付かず,是正しなかった。正しく管制指示がされていれば,958便の機長はこれに従い降下操作を開始し,他方,907便は上昇中であったのであるから,両機はやがて安全な管制間隔を回復することができ,衝突の危険は生じなかった。被告人Aの降下指示の数秒後に作動した両機のTCASは,958便に対し降下RA,907便に対し上昇RAを発しているが,これらとも一致し,円滑に管制間隔の回復は進んだとみることができる。しかしながら,被告人Aが管制指示を誤ったこと及び被告人Bが訓練監督者としてこれを是正しなかった結果,907便は降下RAに従って降下する958便と異常に接近し,衝突の危険が生じたのであるから,被告人両名の行為は実質的に危険性のある行為であったというべきであると思われる。
所論は,被告人Aの管制指示に従って907便が降下し,958便が巡航していれば,両機の水平間隔がゼロの地点で,垂直間隔は約1000フィート確保されていたのであるから,被告人Aの管制指示には過失行為と評価すべき実質的危険性はないとしている。しかしながら,被告人両名は,本件両旅客機を含む一定以上の規格の航空機にTCASが装備されていることについての知識を有し,RAに関する知見もあったと認められるところ,TCASは衝突を回避するための合理的操作を指示するのであるから,被告人Aが管制指示を出した前後には,両機にRAが発出されること,及び958便には降下RAが,907便には上昇RAが発出されることは容易に予見できたというべきである。958便の機長が降下RAに従い降下操作をすることは当然予見でき,漫然と巡航操作を維持し続けるということは,現実的には考え難い事態である。所論は,失当である。
907便には上昇RAが発出されたが,同便のC機長はこれに従わず,降下操作を続けた。この当時,RA優先主義は徹底しておらず,明確なルールはなかったとみることができる。そうした状況で,C機長が,被告人Aから降下指示を受け既に降下操作を行って降下の体勢に入っていたこと等を考慮し,自らの判断で合理的と考えた結果として,RAとは異なる管制指示に従った操作を選択したことを,因果関係を遮断するほどの異常な介在事情であると評価することは相当でないと思われる。
本件は,そもそも,被告人両名が航空管制官として緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である。被告人両名は異常接近警報が作動してそれまで失念していた958便の存在に気付き動揺したこともあって言い間違いをし,かつ言い間違いをしたことに気付かなかったものと認められるが,そうした切迫した状況下では,管制官には,平時にもまして冷静沈着に,誤りなき指示を出すということが求められているというべきである。被告人Aは,訓練生であったが,過ちが許容されるわけではない。とくに,被告人Bは,訓練監督者として,被告人Aの管制指示に誤りがないかを常に注意していなければならないのに,見逃している。さらに,被告人両名は,907便からの復唱があったときにも誤りに気付かなかったというのであり,本件では,不注意が重なっている。幸いにも,両機が接触・衝突して大惨事となる事態を間一髪回避できたが,多数の乗客が負傷しており,その結果は重大であり,被告人両名の行為を看過することは相当でない。
本件では,所論が指摘しているとおり,管制官のヒューマンエラーを事故に結び付けないようにするためのシステムの工夫が十分でなかったことは確かである。しかし,管制官としては,行為時における所与の条件の下で,求められている注意義務を尽くすべきであり,怠った場合は刑法上の過失責任を問われることがあり得るものであろう。上記のようなシステム上の問題は,本件事案においては,被告人両名について過失の成立を妨げるようなものではなく,情状として考慮することがあり得るにとどまるものである。また,事故の原因を調査する専門的機関と捜査機関の協力関係に関しては検討すべき課題があるが,本件のような行為について,刑事責任を問わないことが,事故調査を有効に機能させ,システムの安全性の向上に資する旨の所論は,政策論・立法論としても,現代社会における国民の常識に適うものであるとは考え難く,相当とは思われない。
裁判官櫻井龍子の反対意見は,次のとおりである。
私は,被告人Aの便名の言い間違いによる本件降下指示が,航空管制官としての職務上の義務に違反する不適切な行為であり,多数の乗客,乗員が負傷するという本件ニアミスのきっかけになっていることを否定するものではない。しかし,本件ニアミスについて,被告人両名に結果発生の予見可能性があったことを認め,さらに,本件降下指示と本件ニアミスとの間に法的な意味での因果関係があるものと認めた原判断は,事実の認定に重大な誤りがあり,被告人Aによる本件降下指示及びそれを是正しなかった被告人Bの不作為について過失責任を問うことはできないと考える。その理由は,次のとおりである。
まず,予見可能性について見ると,本件ニアミスは,TCASが作動しRAが発出された後,907便と958便がほぼ同時に降下を始めたため急接近し,衝突を避けるべく907便が急降下を行ったことから発生したものであることは証拠上明らかであるところ,多数意見は,本件降下指示の時点で両機が異常接近しつつある状況にあったことや,TCASの機能の概要やその装備状況に関する被告人両名の知識を前提にすれば,予見可能性が認められるとしている。しかし,本件当時,TCASが作動しRAが発出されたか否かについて,管制卓レーダー画面などを通じて管制官が即座に確実に把握できるシステムは構築されておらず(本件後,管制卓レーダー画面にRA作動の情報を表示することが,航空・鉄道事故調査委員会により勧告されている。),実際に,被告人両名が両機におけるRAの発出に関する連絡を受けたのは本件ニアミス発生後である。このようにTCASがいつ,いかなるRAを発するかについて具体的な情報が航空管制官に提供されるシステムにはなっていなかったことに照らすと,TCASの機能の概要等を知っていたにすぎない被告人両名において,両機へのRAの発出時期及びその内容を具体的に予見することができたと認めることはできない。また,TCASに関する被告人両名の知識を前提に,RAが両機に発せられること自体はある程度予見できたとしても,そもそもTCASは,航空機が異常接近しつつある状況の中で,一方の機に上昇の,他方に降下の指示を出すことによって衝突を防止する装置なのであるから,その指示に反することは極めて危険な行為であって,907便が上昇RAに反して降下を続けたということは,被告人両名にとって予想外の異常な事態であったといってよいと思われる。したがって,958便が降下RAに従って降下し,907便も上昇RAに従わずに降下することによって,両機が異常接近することについて,過失犯としての処罰を基礎付けるほどの予見可能性を被告人両名に認めることはできないというべきである。
次に,因果関係について見ると,907便の機長が上昇RAに従わずに降下継続という判断をした根拠は多数意見において述べられているとおりであり,本件降下指示がその判断に影響していることは否定できないとしても,同機長は本件降下指示以外の諸事情も考慮した上で降下継続を独自に決断したものであること(同機長自身も,降下継続は自らの判断であった旨供述している。)に加え,次のような安全確保のために本来採られているべきであった措置が講じられていなかったという事情が存在する。すなわち,① 降下継続の根拠の一つとして,失速に至るおそれがあると同機長において考えたことがあるが,それは客観的には誤っており,その背景には,周知されているべきであった907便の航空性能が十分周知されていなかったという問題があった。② 前記のとおりの上下反対方向の指示を発出して衝突等を防止するというTCASの機能にかんがみれば,当然の事理として,管制官の指示とRAが相反した場合にはRAが優先し,RAに反する操作は非常に危険なものであることを航空行政当局や航空会社において明らかにし(本件後,RAが原則として優先することとされている。),その教育・訓練がされているべきであったのに,それらは不十分なものにとどまっていた。これらのことを考え合わせると,上記機長の判断は本来提供されるべき情報が提供されていなかった結果生じた客観的には誤った判断であって,上昇RAに反した907便の降下継続は,法的な意味での因果関係の有無を検討する上では,異常な介在事情と評価するのが相当であり,本件降下指示と本件ニアミスとの因果関係は認められないというべきである。
以上のとおり,予見可能性及び因果関係が認められないから,本件降下指示及びこれを是正しなかったことについて過失責任を問うことはできないものと考える。
最後に,本件の特性にかんがみ,以下の点を付言しておきたい。そもそも本件ニアミスの発生原因を総合的に判断すると,航空管制では間に合わないような接近事例における衝突等回避のためのいわば最後の砦として,TCASを一定規模以上の航空機に搭載することが義務付けられたにもかかわらず,管制指示とRAが相反した場合の優先関係という最も重要かつ基本的な運用事項が明確に定められていなかったことが,本件ニアミスに関連することは明らかである(TCAS開発を主導した米国の航空マニュアル等にはRAが管制指示に優先することが明記されていた。)。航空機の運航のように複雑な機械とそれを操作する人間の共同作業が不可欠な現代の高度システムにおいては,誰でも起こしがちな小さなミスが重大な事故につながる可能性は常にある。それだからこそ,二重,三重の安全装置を備えることが肝要であり,その安全装置が十全の機能を果たせるよう日々の努力が求められるというべきである。また,所論は,本件のようなミスについて刑事責任を問うことになると,将来の刑事責任の追及をおそれてミスやその原因を隠ぺいするという萎縮効果が生じ,システム全体の安全性の向上に支障を来す旨主張するが,これは今後検討すべき重要な問題提起であると考える。
最判平成22年1月26日 当直の看護師らが抑制具であるミトンを用いて入院中の患者の両上肢をベッドに拘束した行為が,診療契約上の義務に違反せず,不法行為法上違法ともいえないとされた事例
最判平成22年1月26日 当直の看護師らが抑制具であるミトンを用いて入院中の患者の両上肢をベッドに拘束した行為が,診療契約上の義務に違反せず,不法行為法上違法ともいえないとされた事例
事件番号
平成20(受)2029
事件名
損害賠償請求事件
裁判年月日
平成22年1月26日
法廷名
最高裁判所第三小法廷
裁判種別
判決
結果
破棄自判
判例集等巻・号・頁
民集 第64巻1号219頁
原審裁判所名
名古屋高等裁判所
原審事件番号
平成18(ネ)872
原審裁判年月日
平成20年9月5日
判示事項
当直の看護師らが抑制具であるミトンを用いて入院中の患者の両上肢をベッドに拘束した行為が,診療契約上の義務に違反せず,不法行為法上違法ともいえないとされた事例
裁判要旨
当直の看護師らが抑制具であるミトン(手先の丸まった長い手袋様のもので緊縛用のひもが付いているもの)を用いて入院中の患者の両上肢をベッドに拘束した行為は,次の(1)〜(3)など判示の事情の下では,上記患者が転倒,転落により重大な傷害を負う危険を避けるため緊急やむを得ず行われた行為であって,診療契約上の義務に違反するものではなく,不法行為法上違法ともいえない。
(1) 上記患者は,上記行為が行われた当日,せん妄の状態で,深夜頻繁にナースコールを繰り返し,車いすで詰所に行ってはオムツの交換を求め,大声を出すなどした上,興奮してベッドに起き上がろうとする行動を繰り返していたものであり,当時80歳という高齢で,4か月前に他病院で転倒して骨折したことがあったほか,10日ほど前にもせん妄の状態で上記と同様の行動を繰り返して転倒したことがあった。
(2) 看護師らは,約4時間にもわたって,上記患者の求めに応じて汚れていなくてもオムツを交換し,お茶を飲ませるなどして落ち着かせようと努めたが,上記患者の興奮状態は一向に収まらず,また,その勤務態勢からして,深夜,長時間にわたり,看護師が上記患者に付きっきりで対応することは困難であった。
(3) 看護師が上記患者の入眠を確認して速やかにミトンを外したため,上記行為による拘束時間は約2時間であった。
参照法条
民法415条,民法709条
判旨
主文
原判決中,上告人敗訴部分を破棄する。
前項の部分につき,被上告人らの控訴をいずれも棄却する。
控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。
1 本件は,第1審原告亡Aの子である被上告人らが,E病院(以下「本件病院」という。)を開設する上告人に対し,当直の看護師らが本件病院に入院中のAの両上肢をベッドに拘束したことが診療契約上の義務に違反する違法な行為であるなどと主張して,債務不履行又は不法行為に基づき損害賠償の支払を求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1) A(大正12年2月生)は,平成15年6月20日(以下,平成15年については月日のみを記載する。)以降,両側胸部痛を訴えてF病院整形外科に入院していたが,7月16日,入眠剤を投与された状態で歩行していたところ,トイレ内で転倒して左恥骨骨折の傷害を負った。
Aは,8月1日,肋間神経痛及び左恥骨骨折の治療並びにリハビリテーションのため,本件病院内科に入院したが,9月12日に退院した。
(2) Aは,10月7日,変形性脊椎症,腎不全,狭心症等と診断されて本件病院外科に入院した。入院当初は腰痛により歩行困難であったが,徐々に軽快し,ベッドから車いすに移乗してトイレに行ったり,手すりにつかまり立ちしたりできるようになった。しかし,看護計画によれば,痛みがひどいときは無理にトイレへ行かず,昼はリハビリパンツを,夜はオムツを着用することとされていた。
(3) Aは,10月22日から11月5日にかけて,夜間になると,大きな声で意味不明なことを言いながらゴミ箱に触って落ち着かない様子を見せ,トイレで急に立てなくなってナースコールをし,汚れたティッシュを便器の中に入れずに自分の目の前に捨てるなどせん妄(意識混濁,精神運動興奮,錯覚,幻覚等を伴い短期間に変動する可逆的な意識障害)の症状がみられ,同月4日には,何度もナースコールを繰り返してオムツをしてほしいと要求し,これに対する看護師の説明を理解せず,1人でトイレに行った帰りに車いすを押して歩いて転倒したことがあった。
(4) 本件病院は,救急指定病院であり,内科,消化器科,外科,リハビリテーション科等の診療科目を備えている。
11月15日夜から翌16日朝にかけて,Aの入院していた病棟(定床数41床)には,B,C,Dの3名の当直看護師がいた。当直看護師らが対応すべき患者数は27名であり,重症患者はいなかったが,「特殊(要注意)」な患者としてドレナージ中の者が1名いた。
(5) Aは,11月15日午後9時の消灯前に入眠剤リーゼを服用したが,消灯後も頻繁にナースコールを繰り返し,オムツを替えてもらいたいと要求した。看護師らは,オムツを確認して汚れていないときはその旨説明し,オムツに触らせるなどしたが,Aは納得しなかったため,汚れていなくてもその都度オムツを交換するなどしてAを落ち着かせようと努めた。
Aは,同日午後10時過ぎころ,車いすを足でこぐようにして詰所を訪れ,病棟内に響く大声で「看護婦さんオムツみて」などと訴えた。これに対応した看護師は,車いすを押して病室にAを連れ戻し,オムツを交換して入眠するよう促したが,Aは,その後も何度も車いすに乗って詰所に向かうことを繰り返し,オムツの汚れを訴えた。看護師らは,その都度,Aを病室へ連れ戻し,汚れていなくてもオムツを交換するなどした。
なお,看護師らは,より薬効の強い向精神薬をAに服用させることについては,腎機能もよくないため危険であると判断して,上記のような対応を続けた。
(6) Aは,11月16日午前1時ころにも車いすで詰所を訪れ,車いすから立ち上がろうとし,「おしっこびたびたやでオムツ替えて」「私ぼけとらへんて」などと大声を出した。C看護師は,Aを4人部屋である病室へいったん連れ戻したものの,同室者に迷惑がかかると思ったことや,Aが再び同様の行動を繰り返す可能性が高く,その際に転倒する危険があると考えたことから,D看護師の助力を得て,Aをベッドごと詰所に近い個室である201号室に移動させた。
Aは,201号室でも「オムツ替えて」などと訴えたため,C看護師及びD看護師(以下,両名を併せて「C看護師ら」という。)は,声をかけたりお茶を飲ませたりしてAを落ち着かせようとしたが,Aの興奮状態は一向に収まらず,なおベッドから起き上がろうとする動作を繰り返した。このため,C看護師らは,抑制具であるミトン(手先の丸まった長い手袋様のもので緊縛用のひもが付いているもの)を使用して,Aの右手をベッドの右側の柵に,左手を左側の柵に,それぞれくくりつけた(以下,この行為を「本件抑制行為」という。)。
Aは,口でミトンのひもをかじり片方を外してしまったが,やがて眠り始めた。C看護師らは,詰所から時折Aの様子をうかがっていたが,同日午前3時ころ,Aが入眠したのを確認してもう片方のミトンを外し,明け方にAを元の病室に戻した。Aには,ミトンを外そうとした際に生じたと思われる右手首皮下出血及び下唇擦過傷が見られた。
(7) Aは,11月21日,G市民病院で腎不全の治療を受けるため本件病院を退院した。
(8) Aは,平成16年11月1日,本件訴訟を提起したが,第1審口頭弁論終結後の同18年9月8日に死亡し,子である被上告人らがAの権利義務を承継した。
3 原審は,次のとおり判断して,被上告人らの請求を各35万円の支払を求める限度で認容した。
(1) Aは,せん妄の状態ではあったが,その挙動は,せいぜいベッドから起き上がって車いすに移り,詰所に来る程度のことであって,本件抑制行為を行わなければAが転倒,転落により重大な傷害を負う危険があったとは認められない。また,Aのせん妄状態は,不眠とオムツへの排泄を強いられることによるストレスなどが加わって起きたものであり,さらに,当初Aを説得してオムツが汚れていないことを分からせようとした看護師らのつたない対応がかえってAを興奮させてせん妄状態を高めてしまったと認められること,看護師のうち1名がしばらくAに付き添って安心させ,落ち着かせて入眠するのを待つという対応が不可能であったとは考えられないことからすれば,本件抑制行為に切迫性や非代替性があるとも認められない。Aは,ミトンを外そうとして右手首皮下出血等の傷害を負っており,抑制の態様も軽微はいえない。また,本件抑制行為は,夜間せん妄に対する処置として行われたものであるから,単なる「療養上の世話」ではなく,医師が関与すべき行為であって,当直医の判断を得ることなく看護師が本件抑制行為を行った点でも違法である。
(2) したがって,本件抑制行為は,診療契約上の義務に違反する違法な行為であって,債務不履行及び不法行為を構成する。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1) 前記事実関係によれば,Aは,せん妄の状態で,消灯後から深夜にかけて頻繁にナースコールを繰り返し,車いすで詰所に行っては看護師にオムツの交換を求め,更には詰所や病室で大声を出すなどした上,ベッドごと個室に移された後も興奮が収まらず,ベッドに起き上がろうとする行動を繰り返していたものである。
しかも,Aは,当時80歳という高齢であって,4か月前に他病院で転倒して恥骨を骨折したことがあり,本件病院でも,10日ほど前に,ナースコールを繰り返し,看護師の説明を理解しないまま,車いすを押して歩いて転倒したことがあったというのである。これらのことからすれば,本件抑制行為当時,せん妄の状態で興奮したAが,歩行中に転倒したりベッドから転落したりして骨折等の重大な傷害を負う危険性は極めて高かったというべきである。
また,看護師らは,約4時間にもわたって,頻回にオムツの交換を求めるAに対し,その都度汚れていなくてもオムツを交換し,お茶を飲ませるなどして落ち着かせようと努めたにもかかわらず,Aの興奮状態は一向に収まらなかったというのであるから,看護師がその後更に付き添うことでAの状態が好転したとは考え難い上,当時,当直の看護師3名で27名の入院患者に対応していたというのであるから,深夜,長時間にわたり,看護師のうち1名がAに付きっきりで対応することは困難であったと考えられる。そして,Aは腎不全の診断を受けており,薬効の強い向精神薬を服用させることは危険であると判断されたのであって,これらのことからすれば,本件抑制行為当時,他にAの転倒,転落の危険を防止する適切な代替方法はなかったというべきである。
さらに,本件抑制行為の態様は,ミトンを使用して両上肢をベッドに固定するというものであるところ,前記事実関係によれば,ミトンの片方はAが口でかんで間もなく外してしまい,もう片方はAの入眠を確認した看護師が速やかに外したため,拘束時間は約2時間にすぎなかったというのであるから,本件抑制行為は,当時のAの状態等に照らし,その転倒,転落の危険を防止するため必要最小限度のものであったということができる。
(2) 入院患者の身体を抑制することは,その患者の受傷を防止するなどのために必要やむを得ないと認められる事情がある場合にのみ許容されるべきものであるが,上記(1)によれば,本件抑制行為は,Aの療養看護に当たっていた看護師らが,転倒,転落によりAが重大な傷害を負う危険を避けるため緊急やむを得ず行った行為であって,診療契約上の義務に違反するものではなく,不法行為法上違法であるということもできない。Aの右手首皮下出血等が,同人が口でミトンを外そうとした際に生じたものであったとしても,上記判断に影響を及ぼすものではなく,また,前記事実関係の下においては,看護師らが事前に当直医の判断を経なかったことをもって違法とする根拠を見いだすことはできない。
5 以上と異なる原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決中上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,被上告人らの請求を棄却した第1審判決は正当であるから,被上告人らの控訴をいずれも棄却すべきである。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
最判平成23年4月26日 精神神経科の医師の患者に対する言動と患者の言動に接した後にPTSD(外傷後ストレス障害)と診断された症状との間に相当因果関係があるということはできないとされた事例
最判平成23年4月26日 精神神経科の医師の患者に対する言動と患者の言動に接した後にPTSD(外傷後ストレス障害)と診断された症状との間に相当因果関係があるということはできないとされた事例
事件番号
平成21(受)733
事件名
損害賠償請求事件
裁判年月日
平成23年4月26日
法廷名
最高裁判所第三小法廷
裁判種別
判決
結果
破棄自判
判例集等巻・号・頁
集民 第236号497頁
原審裁判所名
東京高等裁判所
原審事件番号
平成20(ネ)3342
原審裁判年月日
平成21年1月14日
判示事項
精神神経科の医師の患者に対する言動と上記患者が上記言動に接した後にPTSD(外傷後ストレス障害)と診断された症状との間に相当因果関係があるということはできないとされた事例
裁判要旨
精神神経科の医師が,過去に知人から首を絞められるなどの被害を受けたことのある患者に対し,人格に問題があり,病名は「人格障害」であると発言するなどした後,上記患者が,精神科の他の医師に対し,頭痛,集中力低下等の症状を訴え,上記の言動を再外傷体験としてPTSD(外傷後ストレス障害)を発症した旨の診断を受けたとしても,次の(1),(2)など判示の事情の下においては,上記の言動と上記症状との間に相当因果関係があるということはできない。
(1) 上記の言動は,それ自体がPTSDの発症原因となり得る外傷的な出来事に当たるものではないし,上記患者がPTSD発症のそもそもの原因となった外傷体験であるとする上記被害と類似し,又はこれを想起させるものでもない。
(2) PTSDの発症原因となり得る外傷体験のある者は,これとは類似せず,また,これを想起させるものともいえない他の重大でないストレス要因によってもPTSDを発症することがある旨の医学的知見が認められているわけではない。
参照法条
民法416条,民法709条
判旨
主 文
原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
前項の部分につき,被上告人の控訴を棄却する。
控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。
理 由
上告代理人岡田隆志の上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について
1 本件は,上告人の開設するa 病院(以下「上告人病院」という。)の精神神経科に通院し,上告人病院のA医師(以下「A医師」という。)の診察を受けた被上告人が,上記診療時において,過去のストーカー被害などの外傷体験を原因とする外傷後ストレス障害(以下「PTSD」という。)に罹患していたにもかかわらず,A医師から誤診に基づきパーソナリティー障害(人格障害)であるとの病名を告知され,また,治療を拒絶されるなどしたことにより,同診療時には発現が抑えられていたPTSDの症状が発現するに至ったと主張して,上告人に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 被上告人は,昭和38年生まれの女性で,平成4年から平成15年まで山形県内の町役場に勤務していた間に,昔の友人である男性から長年にわたってストーカーまがいの行為をされ,自宅で首を絞められるなどの被害を受けたほか,平成12年3月には,宴席で勤務先の男性職員から身体に触れられるなどのセクシュアルハラスメントを受けたことがあった(以下,これらの被害を「本件ストーカー等の被害」という。)。
(2) 被上告人は,平成15年1月,頭痛を訴えてb 市立病院の精神科において診察を受け,以前に本件ストーカー等の被害を受けたこと,ストレスがたまってくると周囲の人に当たったり,泣き叫んだりすることなどを話した。被上告人は,抑鬱神経症と診断され,薬物治療が開始されたが,同年3月,町役場を退職して東京に戻り,看護師としてアルバイト勤務を始めた。
(3) 被上告人は,同年11月及び同年12月,頭痛を訴えて上告人病院の精神神経科を受診し,B医師(以下「B医師」という。)の診察を受けた。
被上告人は,初診時に,山形県の病院で抑鬱神経症であると診断されたこと,10年くらい前にストーカーのようなものがあったことなどを話し,B医師は,被上告人が鬱状態にあると診断し,精神・情動安定剤を処方した。
(4) 被上告人は,平成16年1月9日,上告人病院の精神神経科において,B医師から引継ぎを受けたA医師の診察を受けた。
被上告人は,頭痛を訴えるとともに,平成15年11月の診察時に鬱状態と言われてショックを受けたなどと話したが,A医師は,主訴である頭痛についての精査を優先させることとし,被上告人に対し,器質的な要因の有無を確認するために脳神経外科を受診するよう指示し,同科において必要性が認められた場合にはMRI検査を受けることになる旨を説明した。しかし,被上告人は,これを聞き入れず,早くMRI検査を受けたいとして,強引にA医師にMRIの検査依頼をしてもらった。
(5) 上告人病院の脳神経外科の医師は,その後,MRI検査及び診察の結果を踏まえて,被上告人につき筋緊張性頭痛との診断を行い,A医師に対し,その診断内容と同科においても経過観察をする旨を連絡した。
(6) 被上告人は,平成16年1月30日,上告人病院の精神神経科において,A医師と面接をした(以下,この面接を「本件面接」という。)。本件面接に至る経緯及びその内容は,次のとおりである。
ア 被上告人は,同日の診療受付終了時刻の前頃,上告人病院の精神神経科の受付に電話をし,受付時間に少し遅れるが診察してほしいと述べ,応対した看護師から,用件が緊急ではなく検査結果の確認のみであるなら次回にお願いしたい旨を告げられると,興奮した状態で,診察を受けたいとの要求を続けたため,上記看護師からその報告を受けたA医師は,検査結果を伝えるだけという条件で,被上告人と会うことを了承した。
イ A医師は,被上告人に対し,MRI検査の結果は異常がないこと及び頭痛のコントロールが当面のテーマであることを説明した上,脳神経外科を受診するよう指示し,精神神経科にはもう来なくてよいと告げて面接を終了しようとした。
ウ しかし,被上告人が,これに応じず,自らの病状についての訴えや質問を繰り返したため,A医師は,これに答えて,被上告人は人格に問題があり普通の人と行動が違う,被上告人の病名は「人格障害」であるなどの発言をした後,なおも質問を繰り返そうとする被上告人に対し,話はもう終わりであるから帰るように告げて,診察室から退出した(以下,本件面接の際のA医師の言動を「本件言動」という。)。
(7) 被上告人は,平成16年2月10日から,妹の友人の精神科医であるC医師(以下「C医師」という。)が開設するc クリニックにおいて,同医師の診療を受けるようになった。
被上告人は,c クリニックにおける初診時に,頭痛,集中力低下,突然泣いてしまうなどの症状を訴えるとともに,かつて本件ストーカー等の被害を受けたこと,上告人病院の初診時に鬱病と言われてショックで頭から離れないことなどを述べ,同日の診療録には,C医師によるPTSDとの診断が記載されたが,被上告人がA医師の本件言動について話した旨の記載はない。被上告人は,その後も1週間に1回程度c クリニックに通院し,初診時と同様の症状や山形でいろいろあったことを思い出すことなどを訴え(以下,被上告人がc クリニックで訴えた症状を「本件症状」という。),C医師の問診に対し,過去の体験の一つとして,本件言動に対する怒りを述べるなどした。
(8) PTSDについて広く用いられている診断基準の一つであるDSM−Ⅳ−TR(DSMは,アメリカ精神医学会が発表しているもので,「精神疾患の診断・統計マニュアル」などと訳されている。)によれば,PTSDの発症を認定するための要件の一つとして,「実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を,1度または数度,あるいは自分または他人の身体の保全に迫る危険を,その人が体験し,目撃し,または直面した」というような外傷的な出来事に暴露されたことを要するとされており,また,文献の中には,PTSDの症状が,その原因となった外傷を想起されるもの,人生のストレス要因又は新たな外傷的出来事に反応して再発することもあること,同一ないし類似の再外傷体験がPTSDを発症させやすいことなどを説くものがある。
3 上記事実関係等の下において,原審は,本件面接におけるA医師の被上告人に対する本件言動は医師としての注意義務に違反するものであり,本件症状はPTSDの発症と認められるとした上,被上告人は,過去に本件ストーカー等の被害を受けていたことから,本件面接時において,PTSDを発症する可能性がある状態にあったところ,A医師の本件言動により,その主体的意思ないし人格を否定されたと感じたことから,これが心的外傷となり,そのとき保持されていたバランスが崩れ,過去の外傷体験が一挙に噴出してPTSDの症状が現れる結果となったと判断して,A医師の本件言動と被上告人の本件症状の発症との間に相当因果関係があると認め,被上告人の請求を一部認容した。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
前記事実関係等によれば,A医師の本件言動は,その発言の中にやや適切を欠く点があることは否定できないとしても,診療受付時刻を過ぎて本件面接を行うことになった当初の目的を超えて,自らの病状についての訴えや質問を繰り返す被上告人に応対する過程での言動であることを考慮すると,これをもって,直ちに精神神経科を受診する患者に対応する医師としての注意義務に反する行為であると評価するについては疑問を入れる余地がある上,これが被上告人の生命身体に危害が及ぶことを想起させるような内容のものではないことは明らかであって,前記のPTSDの診断基準に照らすならば,それ自体がPTSDの発症原因となり得る外傷的な出来事に当たるとみる余地はない。そして,A医師の本件言動は,被上告人がPTSD発症のそもそもの原因となった外傷体験であると主張する本件ストーカー等の被害と類似し,又はこれを想起させるものであるとみることもできないし,また,PTSDの発症原因となり得る外傷体験のある者は,これとは類似せず,また,これを想起させるものともいえない他の重大でないストレス要因によってもPTSDを発症することがある旨の医学的知見が認められているわけではない。なお,C医師は,平成16年2月10日の初診時に,被上告人がPTSDを発症していると診断しているが,この時の被上告人の訴えは平成15年1月にb 市立病院の精神科で診察を受けた時以来の訴えと多くの部分が共通する上,上記初診時の診療録には,A医師の本件言動を問題にする発言は記載されていない。
以上を総合すると,A医師の本件言動と被上告人に本件症状が生じたこととの間に相当因果関係があるということができないことは明らかである。被上告人の診療に当たっているC医師が,A医師の本件言動が再外傷体験となり,被上告人がPTSDを発症した旨の診断をしていることは,この判断を左右するものではない。
5 以上と異なる原審の判断には,法令の解釈を誤った違法があり,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由があり,原判決中上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,同部分に関する被上告人の請求を棄却した第1審の判断は正当であるから,同部分に関する被上告人の控訴を棄却する。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
最判平成23年4月28日 共同配信記事名誉毀損事件
事件番号
平成21(受)2057
事件名
損害賠償請求事件
裁判年月日
平成23年4月28日
法廷名
最高裁判所第一小法廷
裁判種別
判決
結果
棄却
判例集等巻・号・頁
民集 第65巻3号1499頁
原審裁判所名
東京高等裁判所
原審事件番号
平成19(ネ)5006
原審裁判年月日
平成21年7月28日
判示事項
新聞社が通信社からの配信に基づき自己の発行する新聞に記事を掲載するに当たり当該記事に摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由があるといえる場合
裁判要旨
新聞社が,通信社からの配信に基づき,自己の発行する新聞に記事を掲載した場合において,少なくとも,当該通信社と当該新聞社とが,記事の取材,作成,配信及び掲載という一連の過程において,報道主体としての一体性を有すると評価することができるときは,当該通信社が当該配信記事に摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由があるのであれば,当該新聞社が当該配信記事に摘示された事実の真実性に疑いを抱くべき事実があるにもかかわらずこれを漫然と掲載したなど特段の事情のない限り,当該新聞社が自己の発行する新聞に掲載した記事に摘示された事実を真実と信ずるについても相当の理由があり,以上の理は,新聞社が掲載した記事に,これが通信社からの配信に基づく記事である旨の表示がない場合であっても異なるものではない。
参照法条
民法709条,民法710条,刑法230条の2第1項
判旨
主 文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理 由
上告代理人喜田村洋一,同二関辰郎の上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について
1 本件は,上告人が,被上告人らの発行する各新聞に掲載された通信社からの配信に基づく記事によって名誉を毀損されたと主張して,被上告人らに対し,不法行為に基づく損害賠償を求める事案である。被上告人らは,上記通信社が上記記事に摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があるから,被上告人らが同事実を真実と信ずるについても相当の理由があるというべきであって,被上告人らは不法行為責任を負わないなどと主張している。
2 原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1) 上告人は,平成13年当時,a 大学附属b 研究所に勤務していた医師である。
(2) 被上告人らは,平成14年7月5日,a 大学病院において平成13年3月2日に行われた手術に関し,上告人が人工心肺装置の操作を誤ったことにより患者を死亡させたなどとする記事(以下「本件各紙掲載記事」という。)をそれぞれ自己の発行する新聞に掲載した。
(3) 被上告人らは,社団法人Z通信社の社員(加盟社)であり,本件各紙掲載記事は,被上告人らが同社から配信を受けた記事(以下「本件配信記事」という。)を,裏付け取材をすることなく,ほぼそのまま掲載したものであるが,本件各紙掲載記事には,これがZ通信社からの配信に基づく記事である旨の表示はない。
(4) Z通信社は,全国の地方新聞社等を社員(加盟社)とする社団法人であり,国内及び国外のニュースを取材し,作成した記事を加盟社等に配信する事業等を行っている。加盟社は,Z通信社の定款及び同施行細則上,同社の配信する記事を受ける権利を有するものとされており,加盟社は,配信を受けた記事を自己の発行する新聞に掲載するか否かを自由に判断することができるが,掲載する場合には,原則としてこれをそのまま掲載すべきものとされている。
(5) 加盟社は,Z通信社の社員として,社費等の支払を通じて同社の運営費用を負担している。また,加盟社は,社員総会等の内部組織を通じてZ通信社の経営に参画しており,同社の理事及び監事の多くは加盟社の役員等から選任されている。Z通信社では,加盟社の担当者の出席を得て,経営企画担当者会議,編集局長会議等が開催され,Z通信社の業務運営等に関する報告や意見交換がされている。
(6) 被上告人らは,自社の新聞の発行地域において複数の支社ないし支局を有しているが,海外はもとより,同地域外においては,東京ないし大阪において支社を有しているほかは,原則として取材拠点等を有していない。
Z通信社から加盟社に配信される記事は,通常1日当たり約1500本であり,被上告人らの発行する新聞においては,全記事の5割から6割程度がZ通信社からの配信に基づいている。
3 原審は,上記事実関係の下において,要旨次のとおり判断して,上告人の被上告人らに対する請求を棄却した。
(1) 本件各紙掲載記事は,専門医である上告人が,自己の専門分野で単純な過誤を犯し患者を死亡させたとの事実を摘示するものであって,上告人の社会的評価を低下させるものであるが,公共の利害に関する事実に係るもので,その記事掲載は,専ら公益を図る目的に出たものである。本件各紙掲載記事に摘示された上記事実が真実であることの証明はないが,Z通信社がそれを真実であると信ずるについて相当の理由があった。
(2) 被上告人らは,Z通信社から配信された記事については,取材をするに当たって報道機関に求められる注意義務が同社によって履行されることを期待し,これに依拠することができる法的地位にあるということができるから,被上告人らは,自己の発行する各新聞にZ通信社から配信された記事を掲載した場合,同社による取材活動の具体的内容をも含めて上記注意義務を尽くしたことを主張立証することができ,その結果,当該記事に摘示された事実が真実であると信ずるについて相当の理由があるといえれば,その事実摘示行為について必要な注意義務が尽くされたことになり,これによって故意又は過失が欠けて,不法行為は成立しないと解するのが相当である。本件では,Z通信社が本件配信記事に摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があるのであるから,被上告人らが本件各紙掲載記事に摘示された事実を真実であると信ずるについても相当の理由があったと認めることができる。
4 所論は,原審の上記3(2)の判断につき,名誉毀損の行為によって摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があるか否かは,行為主体ごとに判断すべきであるから,被上告人らが本件各紙掲載記事につき裏付け取材をしていない以上は,Z通信社が本件配信記事に摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があったとしても,被上告人らが本件各紙掲載記事に摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があるとはいえないというのである。
5(1) 民事上の不法行為である名誉毀損については,その行為が公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図るものである場合には,摘示された事実が真実であることの証明がなくても,行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは,同行為には故意又は過失がなく,不法行為は成立しない(最高裁昭和37年(オ)第815号同41年6月23日第一小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。
新聞社が通信社を利用して国内及び国外の幅広いニュースを読者に提供する報道システムは,新聞社の報道内容を充実させ,ひいては国民の知る権利に奉仕するという重要な社会的意義を有し,現代における報道システムの一態様として,広く社会的に認知されているということができる。そして,上記の通信社を利用した報道システムの下では,通常は,新聞社が通信社から配信された記事の内容について裏付け取材を行うことは予定されておらず,これを行うことは現実には困難である。
それにもかかわらず,記事を作成した通信社が当該記事に摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由があるため不法行為責任を負わない場合であっても,当該通信社から当該記事の配信を受け,これをそのまま自己の発行する新聞に掲載した新聞社のみが不法行為責任を負うこととなるとしたならば,上記システムの下における報道が萎縮し,結果的に国民の知る権利が損なわれるおそれのあることを否定することができない。
そうすると,新聞社が,通信社からの配信に基づき,自己の発行する新聞に記事を掲載した場合において,少なくとも,当該通信社と当該新聞社とが,記事の取材,作成,配信及び掲載という一連の過程において,報道主体としての一体性を有すると評価することができるときは,当該新聞社は,当該通信社を取材機関として利用し,取材を代行させたものとして,当該通信社の取材を当該新聞社の取材と同視することが相当であって,当該通信社が当該配信記事に摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由があるのであれば,当該新聞社が当該配信記事に摘示された事実の真実性に疑いを抱くべき事実があるにもかかわらずこれを漫然と掲載したなど特段の事情のない限り,当該新聞社が自己の発行する新聞に掲載した記事に摘示された事実を真実と信ずるについても相当の理由があるというべきである。そして,通信社と新聞社とが報道主体としての一体性を有すると評価すべきか否かは,通信社と新聞社との関係,通信社から新聞社への記事配信の仕組み,新聞社による記事の内容の実質的変更の可否等の事情を総合考慮して判断するのが相当である。以上の理は,新聞社が掲載した記事に,これが通信社からの配信に基づく記事である旨の表示がない場合であっても異なるものではない。
(2) これを本件についてみると,前記事実関係によれば,Z通信社の加盟社は,社団法人であるZ通信社の社員としてその経営に参画しているのみならず,同社の経営や業務等について協議する重要な会議にも出席し,意見を述べるなどして同社の経営体制や取材体制に関与する機会を有しているというのであって,これらの事情によれば,同社とその加盟社とは組織上密接な結びつきを有しているということができる。
このような関係を前提に,Z通信社は,加盟社等に記事を配信することを目的として取材を行い,記事を作成していること,他方,加盟社は,Z通信社から配信される記事を自己の発行する新聞に掲載するに当たっては,当該配信記事を原則としてそのまま掲載することとされていること,被上告人らのような加盟社の発行する新聞に掲載される記事のうち相当多くの部分はZ通信社からの配信に基づいているところ,同社から加盟社に配信される記事は1日当たり約1500本という膨大な数に達する上,被上告人らのような加盟社は,自社の新聞の発行地域外においてほとんど取材拠点等を有しておらず,その全てについて裏付け取材を行うことは不可能に近いことに照らすと,加盟社が配信記事について独自に裏付け取材をすることは想定されていないことが明らかである。
そうすると,Z通信社の加盟社は,自らの報道内容を充実させるためにZ通信社の社員となってその経営等に関与し,同社は加盟社のために,加盟社に代わって取材をし,記事を作成してこれを加盟社に配信し,加盟社は当該配信記事を原則としてそのまま掲載するという体制が構築されているということができ,Z通信社と加盟社は,記事の取材,作成,配信及び掲載という一連の過程において,報道主体としての一体性を有すると評価するのが相当である。他方,本件配信記事について,前記特段の事情があることはうかがわれない。したがって,Z通信社が本件配信記事に摘示された事実を真実であると信ずるについて相当の理由があるのであれば,加盟社である被上告人らが本件各紙掲載記事に摘示された事実を真実であると信ずるについても相当の理由があるというべきであって,被上告人らは本件各紙掲載記事の掲載について名誉毀損の不法行為責任を負わないというべきである。
6 原審の前記3(2)の判断は,以上と同旨をいうものとして是認することができる。論旨は採用することができない。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
最判平成21年11月30日 分譲マンションの各住戸に政党の活動報告等を記載したビラ等を投かんする目的で,同マンションの共用部分に管理組合の意思に反して立ち入った行為をもって刑法130条前段の罪に問うことが,憲法21条1項に違反しないとされた事例
最判平成21年11月30日 分譲マンションの各住戸に政党の活動報告等を記載したビラ等を投かんする目的で,同マンションの共用部分に管理組合の意思に反して立ち入った行為をもって刑法130条前段の罪に問うことが,憲法21条1項に違反しないとされた事例
事件番号
平成20(あ)13
事件名
住居侵入被告事件
裁判年月日
平成21年11月30日
法廷名
最高裁判所第二小法廷
裁判種別
判決
結果
棄却
判例集等巻・号・頁
刑集 第63巻9号1765頁
原審裁判所名
東京高等裁判所
原審事件番号
平成18(う)2754
原審裁判年月日
平成19年12月11日
判示事項
1 分譲マンションの各住戸にビラ等を投かんする目的で,同マンションの共用部分に立ち入った行為につき,刑法130条前段の罪が成立するとされた事例
2 分譲マンションの各住戸に政党の活動報告等を記載したビラ等を投かんする目的で,同マンションの共用部分に管理組合の意思に反して立ち入った行為をもって刑法130条前段の罪に問うことが,憲法21条1項に違反しないとされた事例
裁判要旨
1 分譲マンションの各住戸のドアポストにビラ等を投かんする目的で,同マンションの集合ポストと掲示板が設置された玄関ホールの奥にあるドアを開けるなどして7階から3階までの廊下等の共用部分に立ち入った行為は,同マンションの構造及び管理状況,そのような目的での立入りを禁じたはり紙が玄関ホールの掲示板にちょう付されていた状況などの本件事実関係(判文参照)の下では,同マンションの管理組合の意思に反するものであり,刑法130条前段の罪が成立する。
2 分譲マンションの各住戸のドアポストに政党の活動報告等を記載したビラ等を投かんする目的で,同マンションの玄関ホールの奥にあるドアを開けるなどして7階から3階までの廊下等の共用部分に,同マンションの管理組合の意思に反して立ち入った行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは,憲法21条1項に違反しない。
参照法条
(1,2につき)刑法130条前段 (2につき)憲法21条1項
判旨
主文
本件上告を棄却する。
理由
第1 弁護人後藤寛ほか及び被告人本人の各上告趣意のうち,本件被告人の行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは憲法21条1項に違反するとの主張について
1 原判決の認定及び記録によれば,本件の事実関係は,次のとおりである。
(1) 本件マンションの構造等
ア 本件マンションは,東京都葛飾区亀有2丁目所在の地上7階,地下1階建ての鉄筋コンクリート造りの分譲マンションであり,1階部分は4戸の店舗・事務所として,2階以上は40戸の住宅として分譲されている。1階の店舗・事務所部分への出入口と2階以上の住宅部分への出入口とは完全に区分されている。
イ 2階以上の住宅部分への出入口としては,本件マンション西側の北端に設置されたガラス製両開きドアである玄関出入口と,敷地北側部分に設置された鉄製両開き門扉である西側敷地内出入口とがある。住宅部分への出入口である玄関出入口から本件マンションに入ると,玄関ホールがあり,玄関ホールの奥にガラス製両開きドアである玄関内東側ドアがあり,これを開けて,1階廊下を進むと,突き当たりの右手側にエレベーターがあり,左手側に鉄製片開きドアである東側出入口がある。東側出入口から本件マンションの敷地内に出ると,すぐ左手に2階以上に続く階段がある。
(2) 玄関出入口及び玄関ホール内の状況
ア 玄関出入口付近の壁面には警察官立寄所のプレートが,玄関出入口のドアには「防犯カメラ設置録画中」のステッカーがちょう付されていた。
イ 玄関ホール南側には掲示板と集合ポストが,北側には同ホールに隣接する管理人室の窓口があり,掲示板には,A4版大の白地の紙に本件マンションの管理組合(以下「本件管理組合」という。)名義で「チラシ・パンフレット等広告の投函は固く禁じます。」と黒色の文字で記載されたはり紙と,B4版大の黄色地の紙に本件管理組合名義で「当マンションの敷地内に立ち入り,パンフレットの投函,物品販売などを行うことは厳禁です。工事施行,集金などのために訪問先が特定している業者の方は,必ず管理人室で『入退館記録簿』に記帳の上,入館(退館)願います。」と黒色の文字で記載されたはり紙がちょう付されていた。これらのはり紙のちょう付されている位置は,ビラの配布を目的として玄関ホールに立ち入った者には,よく目立つ位置である。
ウ 管理人室の窓口からは,玄関ホールを通行する者を監視することができ,本件管理組合から管理業務の委託を受けた会社が派遣した管理員が,水曜日を除く平日の午前8時から午後5時まで,水曜日と土曜日は午前8時から正午までの間,勤務していた。
(3) 本件マンションの管理組合規約は,本件マンションの共用部分の保安等の業務を管理組合の業務とし,本件管理組合の理事会が同組合の業務を担当すると規定していたところ,同理事会は,チラシ,ビラ,パンフレット類の配布のための立入りに関し,葛飾区の公報に限って集合ポストへの投かんを認める一方,その余については集合ポストへの投かんを含めて禁止する旨決定していた。
(4) 被告人は,平成16年12月23日午後2時20分ころ,日本共産党葛飾区議団だより,日本共産党都議会報告,日本共産党葛飾区議団作成の区民アンケート及び同アンケートの返信用封筒の4種(以下「本件ビラ」という。)を本件マンションの各住戸に配布するために,本件マンションの玄関出入口を開けて玄関ホールに入り,更に玄関内東側ドアを開け,1階廊下を経て,エレベーターに乗って7階に上がり,各住戸のドアポストに,本件ビラを投かんしながら7階から3階までの各階廊下と外階段を通って3階に至ったところを,住人に声をかけられて,本件ビラの投かんを中止した(以下,この本件マンションの廊下等共用部分に立ち入った行為を「本件立入り行為」という。)。当時,被告人は,上記1(2)イの玄関出入口及び玄関ホール内の状況を認識していた。
2 以上の事実関係によれば,本件マンションの構造及び管理状況,玄関ホール内の状況,上記はり紙の記載内容,本件立入りの目的などからみて,本件立入り行為が本件管理組合の意思に反するものであることは明らかであり,被告人もこれを認識していたものと認められる。そして,本件マンションは分譲マンションであり,本件立入り行為の態様は玄関内東側ドアを開けて7階から3階までの本件マンションの廊下等に立ち入ったというものであることなどに照らすと,法益侵害の程度が極めて軽微なものであったということはできず,他に犯罪の成立を阻却すべき事情は認められないから,本件立入り行為について刑法130条前段の罪が成立するというべきである。
3(1) 所論は,本件立入り行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは憲法21条1項に違反する旨主張する。
(2) 確かに,表現の自由は,民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならず,本件ビラのような政党の政治的意見等を記載したビラの配布は,表現の自由の行使ということができる。しかしながら,憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべきである(最高裁昭和59年(あ)第206号同年12月18日第三小法廷判決・刑集38巻12号3206頁参照)。
本件では,表現そのものを処罰することの憲法適合性が問われているのではなく,表現の手段すなわちビラの配布のために本件管理組合の承諾なく本件マンション内に立ち入ったことを処罰することの憲法適合性が問われているところ,本件で被告人が立ち入った場所は,本件マンションの住人らが私的生活を営む場所である住宅の共用部分であり,その所有者によって構成される本件管理組合がそのような場所として管理していたもので,一般に人が自由に出入りすることのできる場所ではない。たとえ表現の自由の行使のためとはいっても,そこに本件管理組合の意思に反して立ち入ることは,本件管理組合の管理権を侵害するのみならず,そこで私的生活を営む者の私生活の平穏を侵害するものといわざるを得ない。したがって,本件立入り行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは,憲法21条1項に違反するものではない。このように解することができることは,当裁判所の判例(昭和41年(あ)第536号同43年12月18日大法廷判決・刑集22巻13号1549頁,昭和42年(あ)第1626号同45年6月17日大法廷判決・刑集24巻6号280頁)の趣旨に徴して明らかである(最高裁平成17年(あ)第2652号同20年4月11日第二小法廷判決・刑集62巻5号1217頁参照)。所論は理由がない。
第2 その余の主張について
弁護人後藤寛ほかの上告趣意のうち,憲法21条1項の解釈の誤りをいう点は,原判決は所論のような趣旨を判示したものではないから前提を欠き,最高裁昭和43年(あ)第837号同48年4月25日大法廷判決・刑集27巻3号418頁を引用して判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法31条違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であり,被告人本人の上告趣意は,憲法14条,31条違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。
よって,同法408条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。